「そこにいるだけでいい」とは?

人生の目的を知る(探す)には、これまでの人生の中で繰り返して起きていることに注目する事から探っていけることが多いと言われます。

 

繰り返しという観点からは、

・「そこからまだ学ぶべきこと」がまだまだあるので繰り返される

・繰り返される事象そのものが人生の目的

どちらの側面も考えられる。

 

よく遭遇する事として。

 

自分自身はこれといって何する(何をした)わけでもなく、ただその場に出くわして事の成り行きを見届けただけにもかかわらず。そこに居てくれたことで心強かった言ってもらえることが多々あります。

こういうことは考えてみれば、ずーっと幼少のころから(おそらく小学校中学年あたりから)事あるごとに起きている。

 

今週はセミナー仲間がセドナという地に集まり、ここでいくつかのアクティビティーがあります。基本的には自力でホテルにたどり着く事が第一なのですが、道中小さなグループができたり、グループ同士が結合・分裂しながらすごろくの如くコマを進めていく。予め添乗員役のような総隊長を設けていないので、不安がある人は頼れる人からはぐれまいとある意味必死である。

 

初日(DAY0)は移動だけで終わってしまうのですが、何人かの人たちが見知らぬ空港で乗り継ぎ便に間に合うか否かの状況に直面した。こういう時は緊急的に総隊長があらわれ、最大限あらかじめ決められて旅程を守るべく行動がとられていく。基本風格(おそらくその発するオーラ)で自動的に決まる暗黙の了解があるのだとおもう。そして皆の気持ち(ある意味祈り)もあってか、物事は淡々と進んでいく。

 

結果だけ見れば全て自身で解決できた。

「何とかなった、自分はえらいね」と自分で自分自身でほめてあげて欲しいと素直に思う。

 

 

既知でない事に遭遇し、それに対する不安から他人を頼った生き方をしていると、ある時突如頼っていた他人を見失うこともある。その時に自分を信じてどう行動とるかは結構重要だし、頼れるのは自分だけの状況はその状況が今のあなたに必要だか起きているともいえる。頼るものを見失った時こそがチャンスである。

既知でない事に遭遇しそれに関わることで、自分の枠が広がっていく。これを繰り返していく事も気なのだろう人生の目的なのだろう。

 

道中、自分がこれまで仕事としてどういう事をしてきたかシェアする機会もあった。ここ20年ぐらいは主にエンジニア教育という点で仕事をしてきた感がある。例えば新製品の対応(特に私は保守に関すること)についてのエンジニア教育であったりする。

 

保守、特にトラブルの対応は、基本的に手順をあらかじめ提供できることは限られる。そもそもあらかじめ与えられている手順を行っても解決できないからトラブルといわれている。教育するというその場面では、不安を与えずわかった気持ちしにして帰してあげるあげる。これがポイントだと思っている。

 

「自分にもできる」

こう思わせることに尽きると思っている。

 

いざ事が起きた時に、

この問題の解決に、あなたがアサインされました。

あなたはこの問題に取り組むことであなたには学びがあります。

(おそらく宇宙の意図は、そこにあると思う)

あなたはこの問題の解決に全力を尽くしてください。

「いよいよやばい」とそう思える瞬間までは、あまり手出しをしない方向に行動をしてしまう。なぜなら、全ての答えはあなたが持っているから。

 

他人の価値観ではなく、自分の価値観でもの事が見えるようになった時、すべては学びとして降ってくるものを受け取るという事ができるのだと思います。

 

・目の前にぶら下がっているのは、ひとまず受け取る

・おいしくなかったら「ペッ!」と吐き出せばいい

 

すべてに対してノーアイデアですと言って立ち止まってしまった時、その時こそ自分の出番と思えるこの感覚は果たしてどこから来ているんだろう??

 

理屈でわかんなくてもいいのだろうけど。

理屈で理解できて安心したがっている脳みそがある。。。

 

これからDAY1が始まる。