最初の一歩に続く一歩

何事を始めるにも、「最初の一歩」は必ず必要。

 

何かに興味を持つ。

とりあえずやってみる。

ここが最初の一歩。

 

このとき何を感じたかで、次の一歩が出るかどうかが決まる。

 

最初の一歩が感動的であれば、次の一歩は比較的出易い。

次の一歩も感動的なら、そのまた次の一歩も比較的出易い。

 

もし、感動を感じなかったら?

続く一歩はさぞかし重いことでしょう。

それが何度も続けばおそらく数歩で歩みは止まるでしょう。

 

何かに向かって歩み始める時、遠くの目標を見据え、

今は一歩が重々しくても、明るい未来が待っていると心底思えれば歩みは続く。

心底思えれば…義務感を感じながらとも言えるか。

 

一方で、遠くの目標は見えていないけど、一歩一歩が感動的であれば歩みは続けられる。どこへ向かう道か分からなくても、どこかに通じている道であることは間違いがない。

 

直感やひらめきに従うという事は、遠くの目標はぼんやりとしていて掴みどころの無いものではあるが、何か自分の求めている物事が向かう先にあるという確信だけがそこにある。日々の一歩一歩が感動的であれば歩みは止まらない。行きつく先は確信めいたものの正体という事か?

 

つまり、そこに到達するゲームが人生という事か?

 

そういう目で見ると、ようやくゲームが始まったばかりなんだな。と、思える。

おそらくこれまでの人生は、ゲームをスタートするにあたり必要な装備を準備していたともいえる。装備の中にはガラクタ装備もあるし、この先なくてはならない装備もある。ガラクタ装備は整理して次のステージに行かないと、次のステージで持つべき装備が持てないことも。

 

究極の人生目的として「幸せになる」というのは誰にでも共通にあるものだと思っている。その「幸せ」を常につかみ取るためには、両手のうちの片手や心の半分は空けておく必要があるのだと思える。「心のごみ掃除をする」というのはまさに「今」という状況から幸せを感じるために必要なことに思える。

 

ところで、生れ出てから歩けるようになるまで、いったいどんな素敵なことがあったのだろう?その一歩一歩はきっと素敵な感動を感じていたのだろう。

その時の感動を思い出せたら、この先転んでも起き上がれる。

 

いや、転んで起き上がる時にこそ、その感動がまた味わえるというとなのか。

転ぶ事も励みの一つ思えると、気持ちも楽になれるのだろう。

 

「義務感からの解放」こんな言葉が出てきた。

遠くを夢見て重い一歩を歩んでいるような状態を指すのにいい表現かもしれない。

「義務感からの重い一歩をワクワクの一歩へ」なんか使えるかも?